私は、颯斗がその命をのっちょのお腹の中に宿してから、今日まで自然と続けていることがあります。それは、いつの間にか忘れていた、幼い頃の私の習慣。
考えてみれば、いつの間にか気付けば、いろんなことを疑ってばかりいました。
だから、自然としなくなったのかもしれません。
それは『祈り』。
そう・・神様にお願いする事です。
いえ!私は、宗教とかには興味はありません。
しかし、宗教に興味も無い私が、『信じる心』を取り戻し、自然と神様にお願い(お祈り)しているんです。
元々・・私が通っていた保育園はキリスト教よりで、当たり前のように『お祈り』の時間がありました。
ここ(祈りの時間)では、どんな事を祈っても良いのです。
叶えて欲しいお願いでも、嬉しかった事の報告でも、嫌な事の報告でもいいのです。
その当時の私は、姿が見えない『神様』に毎日、自然と話しかけていました。
『神頼み』とは違います。『神頼み』とは、一方的にお願いをすることですが、私の『祈り』は、実際は聞こえないけど、『大丈夫だよ』とか返事が返って来るような気がする不思議な時間でした。
それから、歳を重ねる度にいつのまにか『祈り』なんてしなくなってたけど・・
颯斗が、お腹に命を宿してからは、あの頃と同じ・・毎日のように、姿の見えない『神様』に向かって、『どうか・・どうか健康に』とお祈りをしています。
もちろん、今も私の『祈り』は続いています。
それに・・これからは、さらに『お祈りの時間』がながくなりそうだし・・
さて・・。
現在、その『祈り』のおかげか、我が子はスクスクと健康に育っています。
それに・・親馬鹿ですが、本当にいい笑顔で笑うし、何よりも優しい一面を沢山持つ子に育っています。
そんな颯斗の、最近の流行となっているのは、『ど~じょ』です。
いつの間にか、言うようになりました。
『ど~じょ』とは大人の言葉で言うと、『どうぞ』に当てはまります。
自分で持っているものを、周りの人に与える。そのときの言葉なのです。
例えば、颯斗がお菓子を食べています。
するとそのお菓子を私やのっちょに分け与えるのです。
そのときの言葉が『ど~じょ』なのです。
ラスト1個になっても、それが大好物でも『ど~じょ』なのです。
しかし、自分の食べたいお菓子を我慢して、人に分け与える精神。立派だと思います。
私もこの『ど~じょ』から学ぶことは大きいです。
きっと、私たちが笑顔で『ありがとう』というのがうれしいのでしょう。
きっと、私たちが喜ぶから『ど~じょ』なのでしょう。
『他人の幸せを願うことが、自分の幸せに繫がっている』颯斗から学んだことです。
このまま・・人に優しい子に育って欲しいと思います。
そして、もう1つ。
私の意地悪な質問にも、颯斗の優しさが出ています。
それは・・
『お母さんとお父さんどっちが好き?』
颯斗にこんな質問をしてみます。
颯斗は、黙っています。
もう一度、理解できていないだろう?と思いつつも『パパ』という答えを期待しながら聞きます。
『どっち?』って。
そうすると颯斗はこう答えます。
『あっち』って。
『えっ?ママとパパどっち?』ともう一度聞き直しても、
『あっち』って、答えます。
これは、私達親を想う子供の優しさでしょうか?
それとも本当に『あっち』なのか(笑)
いや。颯斗にとって『あっち』とは『両方』という意味なんだと思います。
どっちなんて無い!どっちも大好きで、愛おしい存在だと想ってくれているんだと思います。
たとえ偶然で、颯斗が何にも理解していなくても、颯斗が答える『あっち』の響が、私には優しく聞こえます。
ただ私は、このような『子・親』に関する質問は、永遠のテーマのような気がします。
そう・・選択なんてできない質問。
先程、私の質問に『あっち』と答えた颯斗同様・・・・
もし・・『颯斗と、お腹の中のあかちゃん、どっちが大事?ねぇ~どっち?』って。颯斗に質問されたら・・
私も、迷わず『あっち』と答えるでしょう。

『颯斗と、お腹のあかちゃん、どっちが大事?ねぇ~どっち?』
『えっ!?あっち』だよ!
だって・・・私にとっては、どちらも大事な我が子ですから。。
次回の更新に続きます

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